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現実と非現実の中で

ぼくには「残酷」という言葉は、凶悪な犯罪など、いわば「現実を生きる世界では予測できない暴力」を世界に表示する材料としてのみに使われるべきだ、と提案したいと思う程、「残酷」という言葉を現実で何気なく使うことに抵抗がある。
しかし、他人が何気なく、「現実が辛い」などといった状態のときに、「現実は残酷だ」といった意思表示をする様を目に耳にしたことのある人は多いと思うが、それは、「残酷」という言葉は現実を生きる世界では一般的に使われ、「現実は残酷だ」という意思がそこには蔓延しているのだ、ということである。
ぼくにはこの、「残酷」という言葉を人々がどこか意味を履き違えて使っていると思わざるを得ない状況が、あまりにも抵抗なく自然的に現実に蔓延しているという現状に違和感を感じられる。

しかしだからといって、最初に挙げた提案を巡った議論が身も蓋もないものになるということが自明であるということは、実際に一般的に議論されていないという事実によっても明らかなので、この提案についての議論はここではしない。
だから、今回の「残酷」という言葉の意味が履き違えて使われているだろうという問題のような、「見直されるべきものであるのかどうか自体が明瞭でない問題」を巡る議論の目的は、自己啓発になる他はないのかもしれない。よって今回の議論は、自己啓発として、問題に対して「違和感を消す」ことが目的となるだろう。

まず、この問題の原因は、簡単にいえば「残酷」という語句の意味を理解していないという点にあるだろう。
「残酷」は辞書では、『きびしく無慈悲なこと。むごたらしいこと。残忍。』と解説されているので、後の解説のために、「現実は残酷だ」を「現実は無慈悲でむごたらしい」と言い換えることにするが、結論からいうと、「現実は残酷だ」=「現実は無慈悲でむごたらしい」という言葉は、文章としてある種のテクストの上では成立しないのであり、少なくとも今回の問題提起上では成立しない。*1
以下はその原因の説明である。

まず、「慈悲」(および「慈悲心」)は、「衆生(『いのちあるもの』)をいつくしみあわれむ心」を意味し、「無慈悲」は、「慈悲」(「慈悲心」)に対して、慈悲心がないことを意味する。
ここで重要なのは、「衆生」以外が「慈悲」をもつことはありえないということである。よって、今回の問題提起上での「現実は残酷だ」という言葉においての「現実」は、(「衆生」ではないという)その構造上、「慈悲」も「無慈悲」も持ちえないものなのではないか、と、必然的に確信できる。
これを踏まえれば、今回の問題提起上での「現実」が「残酷」であるということがありえないということがわかる。だから、「現実は残酷だ」=「現実は無慈悲でむごたらしい」という言葉は、今回の問題提起上での文章として成立しないのだ。

これで、今回の問題提起上での「残酷」という言葉の意味が履き違えて使われているだろうという問題は、以上のように証明されたのだが、これは、「違和感を消す」という目的に達するための材料に過ぎない。これをもとに、なぜ人々は「現実は残酷だ」という意思表示をしてしまうのかということについて考える必要がある。

原因として、「残酷」という言葉がキャッチーであるが故に、「現実が辛い」などという意思表示をする際のハイコンテクスチュアルな表現として、「現実は残酷だ」という言葉が枕詞化されていることにあると思う。だから、何気なく、自分自身の意思とはかけ離れたこのキャッチーな言葉を使ってしまうのだ。そしてこの、意思と言葉の差異に違和感を感じるのだ...
ぼくは最初に、「「残酷」という言葉を現実で何気なく使うことに抵抗がある」といったのだが、「何気なく」とは、「無自覚に」という意味でもあるので、「「残酷」という言葉を現実で無自覚に使うことに抵抗がある」と言い換えられるのだが、根拠はないが、後者はより説得力が強いという印象をうけるので、それに乗じて、いちばんいいたいことをいわせていただく。

ともあれぼくたちは、言葉を使う際には、今回の問題提起に限らずとも、自分の意志に忠実に言葉を使うということに自覚的にならなければ、今回の「違和感を消す」という目的は達成できないのだ。

読んでいただきありがとうございました。
ぼくがこの記事をかこうと思った動機は、「現実が残酷なわけがない」と、ふと思ったからなのです。つまり、現実は何も悪くないのだから悪く言うなといいたかったのです。だから、最初に出た結論は「「現実」に「残酷」は存在できない。「無慈悲」もしかり。」というものでした。しかしこれでは、あまりにも「現実」の定義を無視していると思い、「文章としてある種のテクストの上では成立しない」との旨を追加したりして、議論に一貫性を持たせました。
これから様々なテクストや議論を目に耳にすることと思いますが、「現実」とは何かを知らなければ、何も喋ったり書いたりしてはいけないのだと痛感しました。しかし、「現実」とは何かということがわかるということはありえないことなのかもしれません。その場合、『答えを知るために黙々とやり続ける』ではいけない。現実と非現実の中で、『答えは無いけど黙々とやり続ける』と叩き込んでやるのだ。

*1:「今回の問題提起上で」と余さず言及するのは、「現実は残酷だ」=「現実は無慈悲でむごたらしい」という言葉が文章として成立しうるテクストが存在する場合を想定したためである。