メルテブルク

殺傷ブルース、オーデンセの鳥

読みやすい

はじめに

親がいない人はいない。しかし、学校に通うとなれば授業参観があり、授業参観に親が来ない人もいる。
人にはいつでも死ぬ、あるいは殺される可能性があり、人は守り切れるものではない。だから人は、言葉で人を動かすことはできない。だから親は子供に、行動で世界のことを教える。
さあそこから先は自由だ。親が子供に対して責任を持つとすれば、法律のことのみだ。

幻想は幻想の幻想

2015年1月現在、日本の社会学者や哲学者は、親による子供に対する暴力的な行為により、子供にトラウマを植え付けてしまうことを防ぐことを目的とした、親による子供への教育や干渉の仕方の制度設計を、極めて公式化、つまり制度化させるということを唱えていた。彼ら個々の知識や倫理観を動員して議論した結果だそうだ。
人間は犯罪をしない人、しそうな人とに分別されると考えていた17歳のぼくにとって、この件はとても救いになった。だから、日本国民は皆、これに従うべきだと考えていた。そのためには法律にさせなくては。
しかしぼくは、これは文系学者らの幻想であるということはわかっていた。

人生と偉い人

人は、いわゆる偉い人の話を聞かなければならないと思い込んでいる。
偉い人の話は金と引き換えに聞くのか、そうでないのかという話題は消える。だから、偉い人の話に様々な感情を捻じられたとすれば、その人は人生を後悔させているのだ。ぼくはそれに気付いた。人生はすべて後悔であり、無駄なのだ。

殺してはいけない

人は親以外の他者と関わるとき、話す他に方法は無い。無差別に人を殺そうとするとき、それに理由を話さなければ、人々の世界はよりわからなくなることはわかっている。でも殺したい。感情の論理が壊れていく... 悪い人を殺したい。
ぼくの親より良い人はいないと思う。親の通りに生きてきたぼくは、ひどく嫌われていた。原因は恐らくそれだ。それなら、悪い人は誰なのか?ぼくとぼくの親以外全員悪い人なのではないか。と考えを巡らせていたら、わかった。ぼくも悪い人なのだ。では、誰も殺してはいけない?いや、それはいかがなものか。その辺は、法律がどうかしてくれる。どうにかしてくれている?