ぼくはもう死ぬしかないなあって、長いこと思っているよ。だから、死にたいんだ。

本当に自分の真理を知ってほしい人にそれを届かせるのは難しい。ぼくはそのことに失敗し続けている。そしてその度に傷付けたり傷付けられたりする。

もうぼくは相手に何も言ってはいけないのかもしれない。
本当の真理や意志を伝えるためには、当然、適当であってはいけない。しかしそれ以上に、いや、それ以前に、自分は、相手に迷惑をかけていないか? 相手が嫌なことをしていないか? それらの問いに気付いて、できるだけ内省してみたら、所詮は自分の想像力だ、出てきたそれらは到底更正し切れないのだ。それが罪でなくとも、であるというのに。
このとおり、本当の相手に意志や真理を届かせるためには、それを喋るに相当した自分になるために更正をしなければいけないのかもしれないと考えたのだが、更正はしても、その本質が「できるだけ」では通用しないのだ。

このようにぼくは完璧でないから、例えば、ぼくが相手に「残酷だ」と言うこと自体が残酷なのかもしれないと思えるんだ。

いや、あ、そうか、ぼくの存在が残酷なのだ。傷付けられるとかいったけど、ぼくが傷付けてばかりなんだな。ぼくは生きていて贅沢だな。ぼくは生きていちゃいけないな。死ぬしかないな。ああ、死にたい。

そのまま老いるのだから、憐れみは神経質に襲い来る。そしてその姿に救えなさが増したことがまた死にたさを助長させる。

ぼくはこういうとき、「死にたい」。でも、「死んではいけない」理由があるから、真理としては、死にたくないのだ。つまり、「死にたい」というのは一時的な感情なのだ。いくら「もう死ぬしかない」と思ってもだ。くり返すが、本当は死にたくないのだ。
その様相は、死にたいときに、「死んではいけない」という感情が「死にたい」という感情より強い力で生の方向へコントロールしているようなものなのだ。
ぼくは「死にたい」と思うようになってから、その「死んではいけない理由」を知るのに、長い期間を必要とした。けれども、その「死んではいけない理由」が発揮する感情の生命力は、「生きたい」という感情に繋がるとぼくは心から信じている。

「死んではいけない理由」は「もう死ぬしかないわけが無い」と教えてくれるんだよ。

だからぼくは生きる。