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苛立ちと「論理的」と自己表現

ある問題を議論する際に、その問題を論理でおさえるべきなのか、それともその必要は無きにしも非ずであるのか、というメタレベルの議論を必要としてしまっている場合、その時点で、その問題を議論することは、さして重要ではないといえるのではないか。
というのも、重要な問題は、論理的に議論されるべきであるからだ。
自傷行為をする人の中には、自殺願望はあるが、死ねない理由があるから自殺をしないという人もいる。自傷行為は、どうしようもない苦痛が原因である、どうにもならない感情の救済が目的だ。例えば、これは精神病かそうでないかにかかわらず、道義性がある人ならば、非意図的に自分に苦痛を与えてくる相手に対して、「死ね」や「殺す」といった感情は持たない、というように。つまり自傷行為は、攻撃的な感情にかかわらない苦痛の感情(どうしようもない苛立ち)と親和性が高いのだ。
ぼくが書くときは、そのような感情を抱いたときに、それをインセンティブとしていることが多い。いやむしろ書くことで、収拾がつかない感情を沈静化させている。そして一般的に、そのような変遷を経て書かれているものは、しばしば正当な論理で議論されるべき重要な問題たり得ているのだ。
ぼくは死ねない理由があるから、自殺はしないし、自己表現をするなら、自傷行為ではない方法でしたい。病院に行くことが最重要ではあるが。
しかし今回の議論には、「他者に対して攻撃的にはならないだろう」という前提があった。これを、否定神学的に信仰しては危険である。殺人犯等の自暴自棄的(自爆テロ的)な感情に関する議論を措いたのだから。少しいうと、殺人犯らが攻撃的な感情を抱いてしまうのは、道義性の有無という問題だけではわからないだろう。