メルテブルク

殺傷ブルース、オーデンセの鳥

根源的なことたち

川崎市の中1惨殺事件の犯人の正体はインターネット上で特定され、その情報はインターネットで拡散された。
昨日インターネット配信者の「しんやっちょ」が逮捕され、それが大きなニュースになった(テレビで報道された)。 今年の1月に神聖かまってちゃんのの子さんは配信中に警察に職務質問(?)か補導(?)(若しくはどちらも?)をされたが、大きなニュースにはならなかった。
最近、学校の授業の板書を撮影する学生がいる。
配信者らの反社会的行為が及ぼす影響からわかる通り、インターネットを中心とした情報化により、インターネットではテレビより深く濃い情報の出回りが猛威を振るっている。これは、この2010年代後半の初めに顕著に現れていることだ。また、情報端末の利用の仕方によって、かつての文明では想像することができなかったような、有耶無耶な事態の発生が相次いでいる。それらの事態は、日本でインターネット社会が始まった1995年から2000年代を通して、つい最近までには殆ど見られなかったように、ぼくは思う。
ぼくは、これからの時代における、テレビとインターネットの関係について何かしらのことを危惧している。それは今、違和感である、と確信することができる。
しかし今のぼくには、これからのテレビとインターネットの関係について、自分なりの洞察を深めることすらできない。今はそういうレベルなのである。
ぼくは、社会学者の宮台真司さんのいう「さまよえる良心」というものや、文明、文化を生きる市民として、やや社会からドロップアウトした視点から(本当の意味での「ドロップアウト」が何かということはわかり切ってはいないが)生死に関する問題を考えることに努力をしていこうとしているのだが、その問題は、とても根源的なものであるというように思われる。しかし、自分なりに、テレビとインターネットの関係の問題に取り巻く違和感のようなものを解決(まずは洞察を深めることが重要ではあるが)することをしなければ、先に提示した哲学的な問題を(こちらも「自分なりに」ではあるが)解決することができないとぼくは考えるので、テレビとインターネットの関係に関する問題の方が根源的なものであるというように思えるのだ。