ばかでありたくない

ぼくはばかになりたくないです。
ぼくは、人は必ずばかであるのだと考えています。「ばかである」という意味が多義的であることは、「ばか」という語の対義語の多様さをもって自明であるし、そもそもそれぞれの文脈によって異なります。だから、ばかであるということは必ずしも悪いことではないし、人によっては大切なことである場合さえあります。けれども、ぼくはばかであるということについて、良いこととして作用することもあるかもしれないが大切なことではない、というように考えています。
そして、ぼくは大切なこと以外はしたくはないのです。
だから、ぼくはばかになりたくないのです。ある人から見ればぼくはばかですが、普段の生活の中で、他人の物差しによる評価はどうでも良いことだから、気にする必要はありません。ぼくの中でのぼく、つまり自分を客観視した自分がばかでなければ良い、ということです。
他に、ぼくにとって嫌な人が皆ばかであり、その人たちと絶対に同類になりたくない、という理由があります。その人たちは、大切なことを無視して生きている、ぼくの敵となり得る人種です。

ぼくは自殺対策に興味があります。なぜなら、過去にもいったことがあるのですが、ぼく自身の「死にたい」と思ってしまう経験を通して、自殺は絶対にしてはいけないと心から強く思うからです。そしてぼくが生きていくうえで、ぼくが自殺対策に従事することはぼくにとって最重要なことであると思っています。
ぼくは最近、世界は不条理である、とか理不尽である、などということをブログでいっています。人は偶然に翻弄される、と。一時ぼくは「不条理」のイメージとして通り魔事件を思い浮かべたときに、通り魔の対策こそが最重要だと思ったのです。しかし実際、匿名化されたぼくたちが生きる世界のすべては偶然なので、通り魔の被害にあうのは偶然のことであり、不条理なことであり、滅法対策のしようのないことのように思われました。それでもぼくは、この不条理な現状を生きやすくすることが、自殺対策より最重要であると思えてなりませんでした。
そこでぼくは、「不条理耐性」のための自殺対策を提唱することが有効だと考えるようになりました。つまり、世界は不条理で対策しようのないほど残酷だから、世界は生まれた時から不平等で、絶望的なのです。だから、それに絶望して自殺する必要はないということです。「不条理耐性」とは、生き心地の良い人生を目指すということです。これは世界の根源を考えて出した結論です。

と、後半は個人的な話でテーマからは逸れてしまいましたが、後半の議論は、ぼくが生きる、というか世界に生かされていくうえで、ぼくがばかにならないための結論を方法として考えた結果です。

今回の「ばかであること」に関する考え方は無茶であると思われるかもしれませんが、ぼくにとっては大切なことなのです。
読者の方々にも嫌いだなと思う人はいるはずです。その人たちと同類にならないためにも、自分が自分であるために意識することが、自分が自分でなくなる方向にブレーキをかけてくれると信じています。